2000年~ 弁護士時代

恩返しの思いで受験指導を

「官主導から民主導の時代が始まりつつある」と実感していた私は、当初から裁判官や検事ではなく弁護士になりたいと希望していました。民間人の立場に立ち、現場で苦しんでいる人を支えたい。民間人と民間人が対話をし、トラブルを解決していく。その仕事に、自分の全人格をぶつけたいと思ったのです。

しかし司法修習がスタートするまで半年の猶予があります。この間、ゆっくり海外旅行に出かけたり体を休める選択肢もありました。だが私は、司法試験に挑戦しようとしている受験生のためにボランティア講師を務めることにしました。私自身、弁護士の先輩方から無料の特訓ゼミを受け続けたおかげで司法試験に合格できたわけです。今度は自分が恩返しをする番だと思いました。

そして「官主導から民主導の時代が始まりつつある」と実感していた私は、当初から裁判官や検事ではなく弁護士になりたいと希望していました。民間人の立場に立ち、現場で苦しんでいる人を支えたい。民間人と民間人が対話をし、トラブルを解決していく。その仕事に、自分の全人格をぶつけたいと思ったのです。

毎週土曜日と日曜日にはゼミを組み、大学のキャンパスに出張したり都心の会議室で試験対策の指導に当たりました。ゼミ生の答案を丁寧にチェックし、一枚の答案に20行、30行、40行……と詳しく添削を入れていきます。アルバイトで生活費を稼ぐ以外は、ボランティア講師の仕事に心血を注ぎました。

司法試験ゼミには10年、20年と勉強を続けている年上の参加者が何人もいました。そしてかたくなさが表に出て非常にわかりにくい答案になる傾向があります。若輩の私が講師として率直に問題点を指摘すると、ほとんどケンカの一歩寸前まで受講者と意見がぶつかる場面もありました。ですが、私も真剣です。「いや、こういうところは相当手を入れて直さなければ司法試験には通過できません。皆さんはこれだけ能力がある人たちなのですから、早く試験にゴールしてもらいたい。司法試験に受かり、多くの人を弁護士として救っていく立場になってほしいのです」。誠実に真剣に指導に当たっていきました。

何年にもわたって受験生をサポートされているご家族の苦労もあります。時間が許す限り、受験生の家庭訪問をしてお父さんやお母さんとも話をしていきました。自分の輝きをどれだけ最大限に発揮できるか。答案に立ち向かう受験者にとっては、司法試験は全人格をかけた勝負なのです。

仲間と切磋琢磨した司法修習生の日々

99年4月から、一年半にわたる司法修習がスタート。最初の半年間は、埼玉県和光市の寮で集団生活を送りながら弁護士の卵、裁判官や検事の卵と一緒に研修を受けました。

埼玉県和光市で半年間研修を受けたあと、山梨県甲府市に一年間住みながら司法修習を続けました。甲府市では裁判官、検事、弁護士それぞれの修習を受けました。弁護士修習のときには、街の小さな弁護士事務所で実務のお手伝いをしました。億単位のお金が関わる非常に複雑な案件の分析を一人で任されました。

3カ月間かけて、身長と同じくらいの高さにまで積み上がった膨大な書類を必死で読みこみました。とにかく大量の書類や証拠を分析し、書いて書いて書きまくる。弁護士の仕事は体力勝負。ときには不眠不休で仕事に取り組み、依頼者の利益を守るために全力を尽くします。気の遠くなるような司法試験をクリアしたおかげで、こうしたハードな仕事にもめげることなく挑戦できました。

大量の書類を分析し、原告側の証言に見られる矛盾点と反論をまとめ上げます。その分析の結果が決め手となり、最後は裁判に勝訴できました。司法修習生の立場ではありましたが、この仕事は弁護士事務所からとても感謝されたものです。

メガバンク合併の現場で奮闘

司法修習を終えた私は、2000年10月に東京都内にあるアンダーソン・毛利法律事務所(現アンダーソン・毛利・友常法律事務所)で勤務を始めました。

新人弁護士の時代から、私は大規模な企業再編や合併の仕事に携わることができました。2002年4月、第一勧業銀行と富士銀行、日本興業銀行が合併してみずほ銀行が誕生しています。このメガバンク誕生に際し、法律家として難しい仕事に取り組みました。

みずほ銀行誕生は、世界でも類を見ない銀行の大再編劇でした。大きな会社と会社がくっつくわけですので、当然のことながら巨額の資金と人が動くことになります。法律的瑕疵があれば、すべてがオジャンになってしまいかねません。外国資産を安全に移転するため、法律解釈を積み重ねて詳細な法律意見書も提出しました。新米弁護士にとっては、神経がすり減る重い仕事です。

専門的な知識だけでなく、銀行が普段どういう業務をやっているのかといった現場感覚をもち合わせていなければ、適切なアド
バイスはできません。対面する銀行側のスタッフは、何もかもすべてを知っているベテランばかりです。司法試験に合格したばかりの新米弁護士が、彼らベテランスタッフに適切なアドバイスをしなければならない。仕事に当たるための事前準備は大変な苦労を要しました。

企業活動をサポートし、ひいては日本経済全体をしっかりサポートする。こうした弁護士の仕事は、私に大きなやりがいをもたら
しました。

常習窃盗犯を立ち直らせたい

弁護士の仕事は非常に忙しいです。特に法律事務所に入って最初の三年間は猛烈な激務でした。夜中の二時、三時まで事務所に詰めて仕事を続け、ほとんど眠らないまま小菅の東京拘置所へ国選弁護人として面会に出かける。被告人を励ますため、ポケットマネーで差し入れもしました。

国選弁護人を勤める中で特に印象深かったのは、いくつもの前科をもつ常習窃盗犯の男性です。男性のもとへは何度も接見に出かけましたが、そのたびに「自分なんか生きている価値もない」といつも泣いていました。「そんなことはありませんよ。今度こそしっかりがんばりましょう」と必死で激励しました。

刑罰を少しでも軽くして更生してもらうためにも、どうにかして裁判所に情状証人として出廷してくれる人を探す必要がありまし
た。「私が責任をもって、必ずこの人を更生させます」と言ってくれる人を見つけたい。長年にわたって男性と絶縁状態にある肉親を探すため、私は奔走しました。
私は肉親が住んでいる可能性がある地域の路地から路地を回り聞きこみ調査を。まるで探偵や刑事のような地道な仕事でした。

何度も現地に通って聞きこみ調査を続けると、とうとう探していた肉親が見つかりました。しかし、案の定その人は迷惑そうな様子でした。男性とは何年も連絡を取っておらず、家族だとさえ思っていないといいます。「裁判所に情状証人として出廷してほしい」と頼んだところで、簡単に首を縦に振ってくれるはずもありません。

「Aさんには生きる望みがありません。自分は天涯孤独の身だ。もう生きていたってしようがないと絶望しています。Aさんの人
生を救ってあげられる人は、あなたしかいません。あなたの一言が、彼を更生させるカギです」

必死で説得を続け、とうとうその方は情状証人として協力してくれることになりました。何度も犯罪を繰り返してしまう累犯ともなると、人生をあきらめて自暴自棄になっているケースが多いです。犯罪は許されるものではありませんが、被告人の更生は、次の犯罪を防ぐ最重要な方策であると信じています。

国選弁護人の苦悩

国選弁護人として、覚醒剤事件の弁護にも何度か関わったことがあります。覚醒剤は依存性が非常に強い薬物のため、一度手を出してしまうと何度も誘惑に負けてしまうケースが多いです。被告人が何度も同じ罪を繰り返さないように、周囲の家族や友人のサポートは欠かせません。

ある青年は、覚醒剤所持と使用で逮捕されてしまい、就職先の内定を取り消されていました。
接見すると、本人は「もう絶対にやりません」と涙ながらに訴え、深く反省しています。青年は初犯だったこともあり、なんとか早期に社会復帰して更生してもらいたい。そこで彼の婚約者と協力し、内定先の社長とひたすら誠心誠意話し合いました。

覚醒剤事件を起こしたともなれば、会社をクビになっても仕方がありません。ましてや入社前の内定という段階であれば、内定を取り消されるのは当然です。

しかし、青年の深い悔恨と反省を見るにつけ、青年の婚約者と私は、彼の更生を必死に訴えました。絶対に累犯を犯させないことを誓うし、そのためのサポートは惜しまない。そう強く訴えた結果、社長は内定取り消しを思いとどまってくれたのです。
罪は罪として、しっかり罰さなくてはなりません。しかし、再チャレンジを誓う者の可能性の芽を摘み、生きる価値がないとまで弾劾するのは、私は行き過ぎだと思っています。

それに、覚醒剤は常用性と依存性が非常に高いため、ひとたび手を出した人は二度、三度と薬物依存を繰り返してしまうケースが多いです。「二度と薬物に手を出さない」と本人が堅く決意するのは当然として、家族や友人・知人のサポートも大切です。違法薬物の依存者を増やさないため、社会全体での取り組みが必要だと思います。
覚醒剤事件の弁護に取り組みながら、「違法薬物が簡易に手に入る社会を、なんとかして変えたい」と強く願うようになりました。

アメリカの名門UCLAに単身留学

弁護士として働き始めて四年目の2004年6月、転機が訪れます。私は日本を離れてアメリカに留学しました。まずはアメリカ中西部のミシガン州に飛び、2カ月間英語の勉強に努めました。続いて、この年の夏からUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で法律を学んでいます。留学を決意した理由は、弁護士として多忙な数年間を送ってきたため、これからの自分の人生を静かに見つめ直す時間もほしかったという点もありますが、何といっても十代のころから念願だった「世界に雄飛する」という夢を現実にしたいという思いからでした。

法律家として日本のビジネス界で仕事をしていくためには、今アメリカで起きていることをいち早く知っておく必要がありました。アメリカのビジネスにまつわる法律事情を押さえておけば、日本で仕事をするときにも確実に役立ちます。自分が生まれ育った日本を外国から客観的に眺めてみたいという思いもあったし、世界の法律家とおおいにディスカッションしたいという欲求もありました。

UCLAに留学当時のアメリカは、資本の論理で強い者が弱い者を飲みこんでしまうことも、ともすれば是認されてしまう風潮でした。リーマン・ショックによってアメリカ経済が大打撃を受け、こうした論理に疑問が投げかけられるようになったのは08年9月以降のことです。

UCLAでは、自分とは意見が違う人々と議論をぶつけ合いながら切磋琢磨していこうと思い、貪欲な気持ちでアメリカでの学業に打ちこみました。そして05年5月、私はUCLAで法学修士課程を修了します。

ワシントンとニューヨークで広げた人脈

UCLAでの留学を終えると、05年9月からアメリカの法律事務所に出向して働くことになりました。その際、アメリカ・ニューヨーク州の弁護士資格をとろうと決意。世界をまたにかけて活躍する国際弁護士として、日米双方で仕事をしていきたいと思ったのです。

05年5月にUCLAで修士号を取ると、7月の試験に向けて二カ月かけて集中的に勉強しました。予備校に通って必死になって勉強したものの、残念ながら7月の試験では落ちてしまいます。アメリカの法律事務所に出向して働きながら、その後、晴れて試験をパスすることができました。私は、アメリカ滞在中に、国際弁護士として第一歩を踏み出すことができました。後年は中国でも法律実務を積んでいます。さらには、国家間の交渉にまで私は関わることになります。

アメリカ滞在中は、西海岸のロサンゼルスだけでなく東海岸のワシントンDCやニューヨークでも仕事をしています。ワシントンDCは政治の中心地、ニューヨークは経済の中心地。世界の政治・経済の中心地で、おおいに刺激に富んだ日々を送ることができました。

ワシントンDCには5カ月間滞在しながら、世界銀行やIMF(国際通貨基金)など国際機関に勤める職員と人脈を深めました。アメリカでは、一人の上院議員が何十人ものスタッフを抱えてものすごい勢いで仕事をしています。ワシントンDCでは上院議員の事務所を訪ね、ロビー活動の一端にも携わりました。

弁護士が民間企業と中央省庁との間に立ち、国益増進のためにさまざまな立場の人々と協働作業を繰り広げていく。ときには一緒に食事やゴルフをしながら幅広く築いた人脈は、のちのち思わぬところで大きな助けになりました。

『三国志』ルーツの国で語学研修

2004年から06年にかけてのアメリカ滞在中、ものすごい勢いで伸びゆく中国の勢いを肌で感じます。08年の北京オリンピックを控え、中国は急速な経済成長を続けていました。経済界では国名の頭文字を取り、BRICs(Brazil=ブラジル、Russia=ロシア、India=インド、China=中国)の4カ国が世界的な注目を集めていた時期です。

そこで06年6月、私はアメリカを離れて中国へ渡ります。中国では06年から07年初頭にかけて、復旦大学で中国語を学びます。中国語研修を修了してからは、中国の法律事務所に出向して07年8月まで働きました。
復旦大学では100パーセント中国語の授業が始まりました。学校に行く途中もベッドの中でも中国語のCDを聴き続け、わざと上級コースのクラスに入って自分を追いこみました。日本語を勉強したがっている中国人をつかまえて、私が日本語を教えてあげるかわりに中国語を教えてもらいました。

授業は朝から昼までみっちりあり、大学の授業が終わってから机に向かって4・5時間勉強する。夜は友だちと食事に出かけたりお酒を飲みに行き、その場でもずっと中国語でコミュニケーションを取っていました。24時間すべてが中国語の実地訓練だというつもりで、徹底的に勉強する毎日でした。

当時の北京や上海は活気と生命力に満ち溢れており、街を歩いているとみんな元気な表情でした。「明日は今よりもっとよくなっていくのだ」という息吹にあふれ、街全体の開発が急速に進んでいました。

復旦大学での留学中は、弁護士事務所は休職しており、給料はもらっていません。だから資金が続かず、経済的には大変でした。中国留学中、週に4日は屋台で売っている3元(当時、日本円にして45円)の焼きそばを食べていました。復旦大学の横に路地があり、そこでリヤカーのような屋台をひいたおじさんが焼きそばを作ってくれます。この焼きそばが安くておいしかったため、留学中の主食にしていました。

この中国留学中は家計が苦しかったが、実はアメリカ滞在中も留学費用は自分もちで、アパートの家賃や生活費の捻出は大変でした。今では円高がずいぶん進み、ときには1ドル=70円台になったこともあります。当時の為替相場は1ドル=130円台だったため、今留学するよりも何割も出費がかさみました。

とりわけ、ニューヨークは家賃が異様に高いため困りました。普通は1年以下の滞在ではアパートは貸してもらえないのですが、なんとか頼みこんで4・5カ月の短期間でアパートを貸してもらいました。マンハッタンの中心地でアパートを借りたせいもありますが、たった五畳程度のワンルームマンションだというのに家賃が2000ドルもしました。日本円にして、1カ月20万円以上です。

アメリカと中国を渡り歩く留学生活によって、私の貯金はほとんど完全に底をついてしまいました。もっとも、この留学は自分に対する投資でもありました。弁護士として世界で雄飛するためには、少々の出費を自ら負担してでも徹底的に勉強する必要がありました。