2015-05-08
矢倉かつおです。
立夏を過ぎ、若葉が光とともに美しさを増す時季となりました。いかがお過ごしでしょうか。
今年のゴールデンウィーク、関東は行楽日和でした。その最中(さなか)の5月3日は憲法記念日、それを記念し、各所で党恒例の街頭演説を行いました。
日本国憲法と聞き、常に頭に浮かぶのが三原則、つまり「恒久平和主義と国民主権、基本的人権の尊重」です。
小学生のとき、授業でこの三原則を習いました。「当たり前」のことと思っていたのですが、熱く意義を語る先生の姿を見て、この「当たり前」のために、どれだけ多くの犠牲が払われたか気付かされました。そして大人になり、「当たり前」と思うことほど、実はよく知らなかったのではないかと思い至りました。
その憲法が施行され、早や68年。
憲法改正をめぐり、各党が様々主張しています。
公明党は、三原則を有する現憲法は、平和国家日本の礎を築いた「良い憲法」であり、国民生活に定着していると評価します。憲法改正は、その良いものをより良くするために「新たな条文、新たな理念・価値を加える」ものであるべきとします。
これが、「加憲」論です。
この「加憲」論、私の考えですが、大きく二つの意味があると思います。
一つは、現憲法を「良い憲法」と認めること。日本国憲法の存在を否定し「改正自体を目的」とするような姿勢は、認めないということです。
そしてもう一つは、憲法に新しい条文を加えること。何が新たな憲法価値か探るために、当然ながら充実した国民的議論が求められます。これは大事な点だと思います。
これまで、憲法に関する国民的議論はどの程度存在していたでしょうか。
従来の憲法議論というと、専門家による、交わることのない意見の言い合い(時に、罵り合い)といった印象がぬぐえませんでした。個性あふれる強い考えがぶつかればぶつかるほど、多くの国民にとって、違う世界をみる思いが強まったかもしれません。
今、なぜ憲法を議論するか。その意味は、真摯な国民的議論を通じ、一人一人が憲法を自分のものとして捉え直すことではないでしょうか。それが、これまで「当たり前」と思っていた憲法の様々な価値、特に、三原則を真に国民のものとすることにつながる、私はそう思います。
「加憲」論には、その国民的議論を導く力がある、そう確信します。
約50年前、公明党は結党されました。その趣旨は、硬直化した理念・イデオロギー対立だけに明け暮れていた政治を国民の手に戻し、国民生活に立脚させることにありました。
レベルは違いますが、憲法議論も同じと思います。改憲・護憲といった理念対決に陥りがちな憲法議論を、国民生活のなかに取り戻さなければいけない。そのための議論であれば、私は大いにすべきであると思います。
懸念は、情報過多といわれる現代、一部の声の大きな人の意見が世論の風、雰囲気となり国民理解と思い込まされてしまうことです。今ほど政治家に、国民一人一人と丁寧に対話することが求められる時代はないと思います。
国民と離れた従来の憲法議論を繰り返さないよう、私自身肝に銘じながら、今後、本格化する議論に臨みたいと思います。