1975年1月11日、私は神奈川県横浜市で生まれました。「克夫」という名前には、「自分の弱さはすべて克服していきなさい。自分の弱さだけでなく、世界の困難をも克服していくのだ」という思いが込められています。
両親からそう教えられて育ちました。 小さなころの私は、まわりのクラスメイトたちと同じくプロ野球が大好きでした。近所の子どもたちと家の近くで野球をやったり、大洋ホエールズの応援をするために父と一緒に横浜スタジアムへ出かけたものです。
横浜中華街の警察署で剣道も習っていました。でも体が小さい下級生は次々と竹刀を打ちこまれてしまいます。教官を務める警察官が、容赦なく厳しい怒鳴り声を上げるのも怖くて仕方がありませんでした。泣きながら、必死で上級生に食らいついて竹刀を振るったものです。
小学4年生以降は少年野球チームにも入っていました。スポーツが好きではあったものの、私がほかの子より積極的だったわけではなく、小学2~3年生のころはおとなしいほうでした。通信簿に「引っ込み思案の傾向がある」と書かれたこともあります。
もともと積極的なタイプではなく、小学生半ばころの私は気持ちが縮こまっていました。野球で遊ぶ友だちはだいたいいつも決まっていたし、週のうち半分くらいは家に引きこもっていたのではないでしょうか。スポーツが好きではあったものの、決して腕白坊主ではなかったと思います。
中学・高校に進学してからは勉強やクラブ活動、生徒会活動などで手一杯になってしまったものの、小学生時代にはまわりの友だちと同じようにテレビやマンガ、ゲームを楽しんでいました。
毎週日曜日になると、テレビで「サザエさん」を必ず見ていました。私の名前が「克夫」であるため、磯野カツオ君になぞらえて今でも「カツオ」「カツオ」と多くの人から親しく呼んでいただいています。
引っ込み思案だった私も、小学5年生あたりから磯野カツオ君のようにだんだんと積極性が身についていきました。勉強を一生懸命がんばって成績が良くなり、もともと好きだったスポーツを続けたおかげで体がどんどんたくましくなっていきました。
将来はプロ野球選手になるか、飛行機のパイロットとして空を飛び回りたい。生来の引っ込み思案と押しの弱さを少しずつ克服しながら、私は横浜の地ですくすくと成長していきました。
小学三年生のときに父が事業で失敗し、大きな借金を作ってしまいました。父はもともと海運関係の仕事をしており、定年前に早期退職すると自ら新しい事業を立ち上げようとしました。
今から30年ほど前に「コンピュータの時代がくる」と確信していた父は、四畳半の部屋いっぱいに大量のコンピュータを買い込みました。
「時代を先取りしてこのコンピュータを売るのだ」と張り切ったものの事業はうまくいかず、退職金を失ったうえに借金まで積み上がってしまいました。矢倉家は非常に厳しい苦境に陥りました。 どこまでも明るい家庭ではありましたが、時々は両親が怒鳴り合ったり、ギスギスした雰囲気が家庭に漂っていたことも記憶に残っています。
父はビルの警備員やボイラー管理など、昼夜を分かたず仕事をしました。専業主婦だった母は新たに運転免許を取得し、ヘルパーの仕事をしながら家計を支えてくれました。
当時はバブル真っ盛りの好況に沸いていましたが、職を失った60歳前後の父に良い条件の仕事が簡単に見つかるわけがありません。父は仕事探しにかなり苦労したと思います。
私と妹はすぐに家計を支えられるわけではありませんが、そのぶん学校で一生懸命勉強し、家族皆で支え合っていこうと思いま
した。
1987年、私は私立である創価中学に入学します。
今思い返してみると、私が私立学校に進学するのは家計をかなり圧迫したはずです。それでも両親は、どんなに無理をしてでも私を創価中学・高校に送り出そうとがんばってくれました。
後年になってから聞いた話によると、父は生活費の工面に行き詰まって消費者金融からお金を借りた時期もあったようです。そこまで無理をしてでも、息子を学園に送り出したい。そう考えてくれた両親には、いくら感謝しても感謝しきれません。
陰に陽にわたる両親のサポートのおかげで、私は中学生活をスタートさせました。入学式での創立者のスピーチは今でもはっきりと覚えています。
創立者は彫刻家・北村西望氏のエピソードを紹介されました。氏が長崎の平和記念像を制作中だった夜、足元にカタツムリがいたそうです。翌朝になると、そのカタツムリは9mの高さがある像のてっぺんまで登っていたという。北村氏は感嘆し、「たゆまざる歩みおそろしカタツムリ」と詠みました。このエピソードを通し、創立者は「努力の歩みを決して止めてはならない」と教えてくださりました。
どんなに地味で目立たなかったとしても、カタツムリのように淡々と努力を積み重ねる。たゆまざる努力の積み重ねによって、人はいつしか大きな頂きにさえも立てるのだ。と悟りました。
中学二年になり、生徒会の一員となってからは、その活動にのめりこんでいくことになります。わが母校の生徒会は、生徒主体でものごとを進めていくのが特徴であり、「さらにいい学校をつくるにはどうしたらいいか」などと、生徒会の役員たちで、毎日毎日議論を重ねました。
我ながら不思議ですが、あんなに引っ込み思案だった私が、生徒会活動を通して、次第に積極的な性格に変わっていきました。そしてあろうことか、中学二年の終わりに、周りから推されて、生徒会長に立候補することになってしまったのです。
当然ながら逡巡しました。何しろ生徒会の選挙は、毎朝校門の前に立ち、登校する生徒の前で選挙運動を繰り広げたり、推薦人と一緒にずらりと並んで立会演説会を開いたりしなければなりません。さすがに恥ずかしさもありました。しかし、結果は晴れて当選となり、中学最後の1年間を生徒会長として活動することになりました。
文化祭は、私の生涯の原点の日となりました。中学実行委員長として、皆の先頭に立たせていただきました。高校の先輩方と一緒に、「友よ 正義の旗を振れ」というテーマを掲げたことを今でも覚えています。
創価高校に進学した私は、志願して国公立受験クラスに入ったものの、当初は東大をめざそうとは考えてもいませんでした。
勉強一色の生活に最初は戸惑い、反発心からか柔道部に入部し、部活にも打ち込んでいきました。そうした生活を続けながらも、クラスメイトに負けたくないという思いがむくむくと頭をもたげてきたことも事実です。 クラスの仲間たちの勉強に打ち込む姿に、また外交官試験という最難関を突破するためにも、どうせなら日本で最難関の大学にチャレンジしようと決意したのは、高校一年も半ばを過ぎたころでした。
それに、わが家は経済状況が厳しかったため、高校時代は奨学金をいただいていたことも大きかったです。授業料免除という環境がなければ、大学受験など挑戦すること自体も無理だったかもしれません。それからは、猛勉強の日々が始まりました。
朝八時に学校に着くと、校舎の一角にある自習室へ真っ先に駆けこむ。そこで始業時間ギリギリまで勉強し、六限目まで授業を受ける。授業が終わったあとは、下校時間まで再び自習室で勉強に打ちこむ。
自習室を出てからも、自宅に帰るまでの電車の中で英単語や歴史の用語集を覚える。自宅に帰ったあとも、食事の時間を除けば夜の11時~12時までずっと勉強が続きました。
夏休みにもなれば、毎日10時間以上は勉強しました。
受験勉強は孤独で苦しい戦いではありましたが、今、机に向かって取り組んでいる勉強は絶対に無駄にはなりません。この小さな机の上での一つひとつの作業は、自分の将来とダイレクトに結びついている。受験勉強を通して人間として成長し、激動の世界に思いきり飛び出していきたいと思っていました。