司法試験は、公認会計士試験や税理士試験と並び最難関の国家試験として知られています。司法試験の勉強は、東京大学を受験したときとは比較にならないほど厳しかったです。
旧司法試験には、四つの関門がありました。まず一次試験では、短答式試験と論文式試験。この一次試験突破は、司法試験に挑戦する者にとって基本中の基本です。ただ、大学の教養課程を終えていれば免除されます。つまり大学3年生以降であれば、おおむね一次試験を受ける必要はありません。
問題は二次試験です。二次試験では、短答式試験と論文式試験、さらに口述試験という三つの試験が課せられました。短答式試験に合格するためには、約8割の正答率でなければいけません。論文式試験は三日間続き最大の難関でした。
さまざまな法律概念との比較検討など、専門的な論文を、三日間で合計12本書かなければなりません。
みな終わった時にはぐったり。面談式の口述試験は一日に1科目、六日間ぶっ続けで行われます。一瞬たりとも気を抜けません。精神的に一番きつかったのはこの面談試験でした。
司法試験の勉強は、今まで生きてきた中で最も過酷を極めました。朝から晩まで勉強に明け暮れ、アルバイトの交通整理をやっている最中も棒を振りながら呪文のように記憶に努めました。はたから見れば、口をブツブツ動かしながら棒を振っている私はかなり不気味に見えたに違いありません。
私は貧乏学生だったため、専門学校に通う余裕などとてもありませんでした。だから先輩からカセットテープなど教材を借り、独学でどんどん勉強していきました。先輩が開いてくれたゼミでは、司法試験を想定した論述問題を解いて採点してもらいました。
アルバイトをしながら司法試験の勉強に挑戦する日々は、肉体的にも精神的にも大変な苦労でした。朝5時代や6時代から家具の搬入仕事をやり、早いときには午前中だけでバイトが終わることもあります。そんなときには、午後から夜まで勉強時間を捻出できました。午後の1時からすぐに始めれば、合計10時間は勉強できます。
「この試験を突破しなければ人生はおしまいだ」というくらいの危機感をもちながら、限界に挑戦しました。亡くなった父の期待に応えたいという思いもありましたし、母を早く安心させてあげたいという気持ちも強くありました。
しかし、司法試験の壁はそうそう甘くはありません。
朝から晩まで勉強に明け暮れても、受験者100人中たった3人しか合格できない。そんな司法試験への挑戦は、まるでゴールが見えないトンネルを歩き続けているかのように厳しかったです。
毎日10時間以上という膨大な試験勉強に挑戦したにもかかわらず、私は3回連続で司法試験に落ちています。大学三年生(95年)、四年生(96年)、卒業後の1年目(卒業年・97年)、卒業後2年目(98年)と合計四回の試験を受け続け、やっと司法試験を突破することができたのです。
2回目・3回目の受験では、先輩から「今回は受かるだろう」と太鼓判を押されていました。「必ず受かる」と満を持して臨んだ試験で、私は落とされてしまった。しかしあきらめて落ちこんでいるわけにはいきません。司法試験に絶対に合格し、世界に雄飛して「正義の旗」を振るのだ。私は司法試験への挑戦をあきらめず、大学卒業前から三度目の試験勉強を開始しました。
ひたすら覚えて覚えて覚えまくる。書いて書いて書き殴る。疲れたなんて嘆いている暇などありません。全身をフルに使い、答案と格闘する思いで向き合っていきました。書いて、読んで、また書く。同じ問題を10回も20回も解き続けます。ダンボールに詰めこんだ答案用紙が押し入れいっぱいに積み上がるくらい、一切の妥協なく勉強を続けました。
しかし今思い返してみると、二度目と三度目の司法試験で書いた答案には独りよがりの部分があったと思います。自分がもっている知識をありったけ詰めこみ、「どうだ。これを読めるものなら読んでみろ」という傲慢さもあったかもしれません。 四度目の司法試験では、それまでの傲慢さを排した答案が書けました。自分を謙虚に見つめ直し、自らがもつ知識を相手に丁寧に伝えていく。四年目の司法試験は、文字どおり背水の陣でした。早く社会に出て、弁護士として世の中の人々のお役に立ちたい。家族を安心させたい。決死の思いで、苦労に苦労を積み重ねて勉強に打ち込みました。そしてとうとう、実を結んだのです。
98年10月、とうとう私は念願の司法試験に合格。これからは、弁護士として社会で「正義の旗」を振っていくのだ。私は晴れて、社会人としての第一歩を踏み出すことになりました。