1997年~ 大学時代

「余命半年」……父を襲った肺ガン宣告

東大入試の合格発表当時、私の父は日勤と夜勤を交替しながら不規則な仕事をしていました。合格発表の日には仕事を休みにしてもらい、私に内緒で東大までコッソリ掲示板を見に行ったらしいです。私が合格発表を確認してから自宅に帰ると、家の中はお祭り騒ぎでした。
「よくやった!偉い!お前はすごい!」父はビールを片手に、男泣きに泣いて喜んでくれました。

93年冬、私は東京大学文科一類に現役で合格することができました。
ありがたいことに東京大学での学費も免除にしてもらえました。93年4月に東大に入学すると、学費の心配をすることなく学業に打ちこむことができました。
ですが、ここで新たな試練が訪れます。大学に入学してからいくらも経たないうちに、父に肺ガンが見つかったのです。私が大学に行っている間、父が自宅で突然泡を吹いてバタッと倒れたとのこと。

「余命は長くて半年です」医師による残酷な宣告を受け、父は厳しい闘病の日々を送ることになります。矢倉家が絶望の淵に立たされたのです。私が家計を支えよう。そこまで真剣に思い詰めました。余命半年の肺ガンだという事実は、父には知らせませんでした。

問題は医療費です。病院に入院して闘病するとなると、1ヶ月につき30~40万円は費用がかかります。「もうお先真っ暗だ」このままでは矢倉家は早晩経済的に破綻してしまいます。
そんな時、私たちを助けてくれたのは、一人の市議会議員でした。

矢倉家を救ってくれた市議会議員

矢倉家のピンチを救ってくれた市議会議員は、地に足のついた面倒見のよい議員でした。高額医療費制度について教えてくれ、1ヶ月につき30~40万円かかっていた医療費を8万円程度に抑えることができました。

途方に暮れる矢倉家を助けてくれた市議会議員には、今でも深く感謝しています。父を助けてくれた市議会議員との出会いは、私の生活の中に政治が入ってきた初めての瞬間でした。関係ない世界の住人だと思っていた政治家が、自分の人生に深く関わってくれたのです。

目に見える形で絶望感から救ってくれ、私たちの人生を変えてくれた。この経験は、のちに公明党議員として国政に挑戦する大きな動機となりました。

父との永遠の別れ

95年の夏、闘病から一年半を経て父との永遠の別れの日がやってきました。8月3日の朝、大学に行く前に父の病室へお見舞いに出かけました。そのときの父は元気に見えたため、安心して「行ってくるね」と病室をあとに。父は「勉強、がんばってな」と声をかけてくれました。このやりとりが、父と言葉を交わす最後になりました。

大学からバタバタと病院に駆けつけると、父は私の到着を確かめるかのように目を閉じ、翌4日亡くなったのです。

24時間ぶっ続けの肉体労働

父が亡くなってから、アルバイトと司法試験の受験勉強で二足のワラジを履く忙しい日々を送りました。父の収入が途絶えてしまった今、矢倉家に残された借金を私のアルバイトによって返済していかなければなりません。家庭教師のアルバイトとともに、家具搬入の日払いバイトを始めました。路上での交通誘導整理も頻繁にやりました。 長いときには昼→夜→朝と8時間×3セットの24時間フルコースで働いたこともあります。

外交官から弁護士へ、進路転換

私は外交官を目指していましたが、「これからは官主導という発想にとらわれず、民主導の時代がやってくる。ならば外務省ではなく、民間で働く道もあるのではないか」。そう考え、私は弁護士になることを決意しました。弁護士の先輩に進路相談をしていたとき、「弁護士の仕事とは、苦しんでいる人の人生と真正面から向き合って対話していくことが基本だ。だから弁護士の根底には、たしかな人間性が伴っていなければならない。哲学が必要なのだ」。
という言葉に感銘を受けました。弁護士には法律家の視点から、一般企業とともにビジネスのプロジェクトをしっかり作っていく仕事もあるのだと。

「官主導から民主導へ」という世論が盛り上がる90年代半ば、大学生の私は弁護士として民間で仕事をしていこうと決意しました。

 

 

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