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道路陥没事故の現場を視察する中野国交相(右から2人目)、(左から)矢倉、石井氏=15日 埼玉・八潮市
中野洋昌国土交通相(公明党)は15日、埼玉県八潮市の県道交差点で道路が陥没し、トラック1台が転落した事故現場を視察した。公明党の石井啓一常任顧問、矢倉かつお参院議員が同行した。
事故対応を巡り県は、安否不明の男性運転手の捜索や道路の復旧に向けて、下水管の迂回工事、管内の運転席部分をつり上げるための地表の掘削作業を進めている。
視察後、中野国交相は、大野元裕知事らから要望書を受け取り、意見交換した。要望書では、応急対応、抜本的な対策に向けて技術面、財政面での支援を要請。また事故の未然防止を全国的に推進するため、次期国土強靱化実施中期計画に下水道の強靭化を盛り込むよう求めた。
終了後、中野国交相は記者団に対し、「運転手の方の一日も早い救助、そして住民が平穏な暮らしを取り戻せるように、できる限りの支援を行う」と表明。その上で「国民の安全・安心を確保するために、上下水道の全体的な強靱化、老朽化対策も含め必要な対策を検討、実施していく」と強調した。
こんにちは。矢倉かつおです。
皆様のご支援をいただき、参議院議員として全力の活動をしております。改めて、心から御礼申し上げます。
東西冷戦終結という激動のさなかに中学・高校という多感な時期を過ごした私は、その時から、自ら誇る「日本の力」を世界のために役立てる仕事をしたい!との思いを抱いておりました。
その後、日本はデフレ経済に陥り、そして東日本大震災、原発事故という未曾有の災害に直面しました。私が政治を志したのは、まさにそのときです。
世界のどこの国も、未来に対する不安を抱えている今こそ、私たち日本が世界の希望になるべきだ、そう確信したからです。世界のどこの国も経験したことがない苦難を味わう日本こそ、それを乗り越え、希望のメッセージを発することができるからです。私はその先頭に立ちたいと思います。
私が目指す社会は、誰もが「明日はもっとよくなる」、そう思える社会です。幸福な国とは明日への希望にあふれている国だからです。
座右の銘でもある「たくましき楽観主義」を胸に、現場を歩き、多くの方、とりわけ若者達に希望を与えることの出来る存在となってまいります。
2013年
参議院議員
矢倉かつお
1975年(昭和50年)1月11日生れ
埼玉県さいたま市浦和区在住
元・経済産業省通商政策局通商機構部参事官補佐
日本、米国ニューヨーク州弁護士を経て、2013年の参議院選挙埼玉選挙区で初当選し、現在2期目。農林水産大臣政務官や参議院法務委員長、財務副大臣などを歴任。
これまでの人生で起きた危機:中国旅行中に乗っていたツアーバスが山道を走行中にスリップし道路下に転落、九死に一生を得た。その後、同乗していた中国人のためにバス会社と交渉、賠償金を勝ち取った。
私の「克夫」という名前には「自分の弱さはすべて克服していきなさい。自分の弱さだけでなく、世界の困難をも克服していくのだ」という思いが込められています。小学三年生のときに父が事業で失敗をし、その後は昼夜を分かたず仕事漬け。専業主婦だった母も新たに運転免許を取得し、ヘルパーの仕事をしながら家計を支えてくれました。
大学生の時、父が末期の肺がんであると判明。経済状況が苦しいなか、医療費をどう工面するか。助けてくれたのは一人の公明市議でした。教えて頂いた高額療養費制度を利用。父は一年半の闘病の末、95年に亡くなりましたが、関係ない世界の人だと思っていた政治家が、人生に深く関わってくれた。この経験は、議員として国政に挑戦する大きな動機となりました。
2011年3月11日 東日本大震災の発災時、私は経産省に出向中でした。
当時、省庁の縦割りシステムを打破せず、掛け声だけの「政治主導」に失望し、「現場の声に耳を傾け、心ある政治を行いたい」「自分が変えていく」と立候補を決意しました。
2013年7月21日、たくさんの皆さまに応援を頂戴し、埼玉選挙区で初当選。
初心を忘れず、これからもその大きなご期待を生命に刻み、全力で頑張ります。